追悼文2
◆柴崎 妙子(個人会員)
近藤さんに初めて会ったのは、1983年で娘が小3年と年長さんでした。私はもちろん、二人にとっても衝撃でした。よくとおる大阪弁で、何でも受け止め、真正面から迫って下さる大きさ、深さ、広さに引き込まれて、浦和で暮らした3年の間、近藤さんの話題が出なかった日はありません。特に、上の娘にとって、漫画に溢れたお宅は、驚きと憧れと安らぎの場でした。
お宅にいることが当たり前のように、お兄ちゃんもおじちゃんも接してくださったと言います。浦和を離れた後、山形から一人で泊りに行かせて頂いた程です。
2025年3月、近藤さんと、憧れの大阪弁でおしゃべりできて、本当に嬉しく、楽しかった。おじちゃんにも会えたし。あの時、「有難うございました」と言えば良かったと今も言います。みこちゃんにも子ども二人を映画に連れて行ってもらい、お姉さんのように少し大人の世界を見せてもらったようです。本、文庫のことだけでなく、心の拠り所として、我が家にいてくださいました。
近藤さんが家庭を持たれたとき、ご主人様から言われたことが三つあると伺いました。一つは今が一番幸せだと思って暮らそうな。一つは大変な事でも、3年続けたら、癖になるから、癖になるまでがんばろうな。一つは年を取ったら、子どものいうことを聞くようにしような。
近藤さんに出会えなかったら、家族4人とも、今の幸せな時を持てませんでした。
近藤幸子様、ありがとうございました。
*** 設立7年目の親睦旅行 ***
1987.7山形県立博物館 大人<左近司 近藤 平田 小野 瀬間 長井>
1987.7山形の山寺:前<柴﨑
子 子 小野> 中<千綿 平田> 後<左近司 近藤 瀬間 長井>
◆瀬間幸子(ともだち文庫)
*衝撃的な出会い
私が近藤さんとの出会は衝撃的でした。ともだち文庫の開設直後の世話人会の最中に、飛び込んできたのが近藤さんです。北浦和図書館でここを聞いてやってきたそうですが、大柄なうえに色白で聞きなれぬ関西弁で語り続ける彼女の話に、皆あっけに取られていました。帰られた後、「入っていただく? それともお断りする?」と話題になりましたが、「来る者は拒まず!でしょう」となり、ともだち文庫の仲間になりました。
*宇宙人のようなバイタリティ
彼女のバイタリティは留まることがありません。まるで宇宙人です。次から次へと新しい企画を持ち出すのです。学校や、幼稚園、保育園へとおはなしを届けることや、文庫活動報告など出しやすいように謄写版を購入し、各文庫に届けます。お陰様で、地域が違って知り合うこともないような人たちと大変仲良くさせていただきました。
*おはなしを始める
*ともだち文庫の危機も近藤さんの一言で
この人数で毎週土曜日の当番と言うとみじめな状況になります。毎週の折紙や工作、絵本の読み聞かせなど等、きちんとした企画が立てられなくなり、結局子ども達も離れ世話人もさらに離れていくという状況が何年か続き、私もかなり追い込まれ近藤さんに色々ボヤキました。彼女は黙って聞いてくれて、「いつやめても ええねん!」と言います。この言葉で肩の荷が下り?気楽になりました。
浦子連で日本子どもの本連絡会<子本研>、科学の部会のメンバーで沼知方子、山辺昭代、津田研子氏の科学の本の講演会をいたしました。この講演会を機に瀬間は子どもの本研究会の会員となり、いろいろ勉強させていただき、現在も続いています。また、ここのメンバーから石神井公園の近くで「科学あそびの会」をやっている「名倉
弘 氏」を紹介され、それは、それはいろいろな科学あそびを体験する運びとなり、近藤さんには感謝!感謝!
ともだち文庫の活動に「科学あそび」を入れてみました。すると、びっくり!それは大好評で、子どもらが戻ってきました。それも大きい子たちが! 文庫の部屋は席が15人しか無いので、先着15名の断りが出るほどでした。
2000年になると、転勤で来た子が増え、それと同時に世話人も増え、文庫は生き吹き返しました。
◆田中加津代(NPO法人 弱視の子どもたちに絵本を)
近藤さんが亡くなられて、冬から春へと時が過ぎました。もうお会いできない、お話しできないと考えずにいます。どうしたらいいでしょうか?とお電話をし、相談の長電話をしていました。不思議なのですが、今は、すぐ声の届くところに近藤さんが、おいでのようで
どうですかねと、お尋ねしています。あるべき所への道を歩まねばと、いつもぶれず、偏らず、公正で、一人ひとりの願いに応えて、誰のための何の活動なのかと土台へ引き戻して下さり、自分たちのいる位置を謙虚に捉え、砂漠の中の一粒の砂に過ぎない自分の姿を知ること、自らの過ちを認めること、詫びること、そうして、足らずの社会だから、やらなければねと、前を歩いて下さっていた近藤さん。人と人をむすんでくださり、人ヘの惜しみない誠実なあり方は天下一品でした。
近藤さんに、乾千恵さんを浦和へとの願いがあり、島本町の千恵さんのおうちへご案内しました。年々、体調が悪くなっている千恵さん。その書だけは、浦和で展示が出来、その後、浦子連のお力添えで、南相馬の図書館でも書展をすることができました。馬のリトグラフを、南相馬の図書館の畳の間に、掛け軸に仕立てて、寄贈しました。 1度だけ製作されたリトグラフのうち、千恵さんのうちに最後まで残っていた「馬」「音」が、ギャラリーの展示をまわりまわって旅をしたあと、私のところへ来ました。
絵本『月 人 石』を、子どもたちにご紹介くださるおりに、このリトグラフを ご一緒に連れて行っていただけたらと願っています。かつて左手は自由に動く千恵さん(今はもっとくるしくなっておいでです)。自分のうちに「字」がやってくると、お母さんの文子さんが墨をすり、準備され、この一枚と思うまで、書き続けていく。「何枚も書くでしょ、乾かす場所がなくなって、トイレの蓋の上まで置かなきゃならないのよ、大変なのよ」と、笑いながら、千恵さんの気迫に
巻き込まれている姿を、話されていました。
こんなに大きな字と、千恵さんの後ろ姿に、子どもたちに出会ってもらいたいです。
まとまりのない手紙 近藤さんに校正していただかないと・・・。
◆坪木
悦子(小川町 おはなしサークル・ピッコロ )
出会いは1998年5月でした。その年の2月に小川町へ移り住み、町立図書館のおはなし講座開催を知り出かけました。当時、会場は公民館の和室、受付で「きょうのおはなしを書いて下さい」とメモ用紙が。「えっ?初めての受講でもおはなしを語るの?」ためらいながらも『へやの起こり』を語りました。
受講生らが語り終えると、上品な雰囲気のある講師の方が前に立たれ、一人ひとりの講評が始まりました。いよいよ私の番です。「この人な~即戦力になるで~」「えっ?関西のおばちゃん?」出身が関西の私は一遍に親近感を抱きました。
嬉しい出会いから28年。毎月開催、卒業は無しの小川町立図書館おはなし講座で厳しく、優しくご指導いただきました。
『まめじかカンチルが穴に落ちる話』では「穴がだんだんANAになってたで~」と弱点のアクセントを指摘してくださる。『ごろはちだいみょうじん』を語れば翌月に「同じ作者のこんなのもあるよ~」と『きつねのおはなはん』を語ってくださる。次々と思い出されることばかりです。多くを学びました。
また、1998年9月の”おはなしサークル・ピッコロ”の誕生をとても喜んで下さいました。応援して下さいました。育てて下さいました。ピッコロの仲間からの声です。
・縁に感謝しています。
・「おはなしの船が出航したら最後までいきつかせなあかんのよ」という言葉を励みに語っています。なんとか最後まで!と語る原動力になっています。」
・「練習は丁寧に、本番は出たとこ勝負!あとは気にしない」この言葉は私の中でこの先も生き続けます。
・『しんせつな地主さん』大好きなおはなしでした。もう一度聞きたいです。
みんな敬い慕っていました。近藤先生!ありがとうございました。
◆外山 千枝子 (みむろ文庫)
浦和図書館で「どんぐりおはなし勉強会」が始まり、私がその勉強会に加わったのは、今から20年ほど前のことです。その勉強会をご指導くださったのが近藤さんでした。
今の時代は、メールやライン等でやり取りするのが普通ですが、人間の生(なま)の声で子どもたちに、おはなしを届けることはとても大切なことだということを、近藤さんは、折に触れて語ってくださいました。また、その人その人の持っている独特な声のぬくもりや、暖かさをとても大事に思っていらっしゃいました。その声に包まれながら、おはなしに耳を傾ける子どもたちは、想像力を育てながら、安心感や自信に繋がる心を養ってゆけるのだともお話しくださいました。
振り返ってみると、私のおはなしデビューは、三室公民館での「夏休み子ども公民館」というイベントでした。おはなしは「おいしいおかゆ」で、80人ほどの聞き手の方たちを前にして、緊張しドキドキしていたことを思い出します。それ以来、いろいろな失敗を重ねながら、おはなしをする場を増やして行くことで、少しずつおはなしの世界に入って行きました。細々とおはなしを続けてこられたのは、同じ勉強会の仲間の励ましももちろんありますが、近藤さんのほめて育てるという暖かい忍耐強いご指導に守られていたからだと思います。
おはなし会の後、子どもたちからの「おはなし楽しかったよ。また、来てね。」という言葉が私たち語り手にとって一番のごほうびで、一喜一憂しながら、今でもおはなしに向き合っています。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。
◆中尾 加代子(みむろ文庫) 100冊の絵本
近藤幸子さんのお名前は「浦和子どもの本連絡会」が始まったときから、みむろ文庫(三室よい本を読む会)の例会では「すばらしい人」でした。
みむろ文庫の活動が三室児童館から新設の大古里公民館に移った平成11年秋、大古里公民館文庫講座「100冊の絵本を読もう」が企画され、講師は近藤幸子さん・柴崎妙子さんでした。100冊の絵本を大きな手提げ袋に入れて運び、3回に分けておはなしして下さいました。
手遊び「ゆ~らりゆらり かきのきにゆらり」で始まり、就園前の幼児たちも毎回楽しみました。いろいろなお話でわくわくしました。三室小学校の読み聞かせが平成14年から始まりましたので、貴重な勉強になりました。
講座の後の集まりで、「自分の居場所を作りなさい」と言われました。忘れられない言葉として、今でも居場所を探しています。 たくさんのおはなしをありがとうございました。
◆平田 潤子(にこにこ文庫)
1995年の文庫発足前に受講した講座で講師をされた近藤幸子さんに初めてお目にかかりました。講座では、絵本についてだけでなく、ボランティアの心得、グループで活動する上で心がけることなどを話して下さいました。その一つ一つが基礎・基本となって文庫は今も続いています。近藤さん、本当にありがとうございました。
◆松尾 真由美(個人会員)
浦和子どもの本連絡会の設立に大きく関わり、長きに渡り会を引っ張ってこられた近藤幸子さんの突然の訃報にふれ言葉がありません。最後のお別れをしてもなお、信じられませんし、涙が止まりません。
講座を通してお会いし声を掛けていただき、浦子連の活動のみならず、あちこちのおはなし会や講座、絵本の展示イベント、お誕生会等々…数えきれないほどご一緒させていただきました。近藤さんが繋いでくださった『縁』が今の私の世界を広く大きく豊かなものにしてくれました。全てが近藤さんのお陰です。
ボランティアのあるべき姿を教え、導いてくれました。「先生」と呼ぶと「先生やないし」と未熟な私に視線を合わせて言葉を掛けてくれました。近藤さんが子ども達やおはなし・絵本・わらべうたにむけた真摯な姿勢にたくさんの事を学びました。近藤さんに頂いたものは感謝という言葉では表しきれません。
母と同い年の近藤さんが若輩の私を仲間として、友人として接してくださいました。そんな風に誰とでも打ち解ける温かい心の方でした。常に柔軟に人の言葉に耳を傾け、学び吸収することを楽しむ方でした。ご自分がつらい時にも表に出さず、人を思いやり、耐え忍ぶ芯の強い方でした。人の為に涙を流す優しい方でした。
新しいおはなしはいつも近藤さんの前で語りました。しばらく新しいおはなしが増えていません。「あかんやん」と声が聞こえる気がします。この悲しみを乗り越えたら、挑戦します、と最後に近藤さんと約束しました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
◆松本 敬子(個人会員)
近藤さんには、おはなしの基礎を教えていただきました。これからもその大切な基礎を忘れずに語っていきたいと思います。本当にありがとうございました。
東浦和図書館 どんぐりおはなしボランティア養成講座
県立久喜図書館 おはなしボランティア指導者養成講座
◆村山 和子(こぐま文庫)
幼稚園児だった子どもたちと行ったこぐま文庫で、初めて近藤さんにお会いしました。長男が1年生になりました。と告げると即「道祖土小学校でお話し会を始めましょう。すべてのサポートをするから学校との交渉をしてね。」の近藤さんの言葉から始まった道祖土小学校おはなし会は35年間続いています。私にとっては聞いて楽しむものだったおはなしが、あの時から自分が語るものになりました。そして人生の幅を大きく広げてくれるものになりました。近藤さんから教えて頂いたことはおはなしや絵本だけではありません。言葉では言い尽くせない程たくさんの事があります。楽しい思い出もいっぱいあります。いつまでも忘れません。今まで本当にありがとうございました。
◆森内 寿美子(二水会)
二水会は近藤さんの講座の最後の日に立ち上がった会で、一会員として(と言い張って)、15年間ずっとお付き合いくださいました。何しろ、当時の会員は55歳の森内が一番若く、皆それぞれのキャリアで活躍されてきた近藤さんと同世代の方たちばかりだったので、馬が合ったのでしょう、居心地がいいとおっしゃって本当に楽しそうに参加してくれました。近藤さんの提案で、花見、忘年会はもちろん、うどん打ち、お好み焼き大会、見沼の散策、長野に泊まりがけの旅行もしました。おかげで「まず会員が仲良うせなあかん」の言葉通りの会になりました。絵本、おはなし、わらべ歌の基本をきちんと教え、二水会を軌道に乗せてくれた近藤さんですが、思い浮かぶのは、いつも子どものように喜んだり驚いたり、ガハハと笑っている近藤さんです。その雰囲気を、二水会にできるだけ残していきたいと思っています。
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